■東文研セミナー「オスマン朝時代ブルガリア史についてのブルガリアにおける現況」報告

[日時] 2009年7月30日(木)17時から19時まで
[会場] 東京大学東洋文化研究所3階第一会議室
[講師] エヴゲニー・ラドゥシェフ(Evgeniy Radushev)(トルコ共和国、ビルケント大学)
[題目] 東文研セミナー「オスマン朝時代ブルガリア史についてのブルガリアにおける現況」
Osmanli Devri Bulgaristan Tarihi Uzerine Bugunku Bulgaristan'daki Ilmi Arastirmalari Durumu
(東京大学東洋文化研究所・東洋文庫研究部イスラーム地域研究資料室共催)
[言語] トルコ語(通訳なし)

[概要]
 エヴゲニー・ラドゥシェフ氏は、今回のセミナーでは、ブルガリアにおけるオスマン帝国期ブルガリア史研究の 歩みと今後の展望について、以下のような報告をなされた(なお、今回のセミナーは、前回2月のセミナーを踏 まえたものであり、ラドゥシェフ氏の経歴と専門そしての前回のセミナーについては、前回のセミナー報告を参 照されたい)。

 ブルガリアは、500年近くにわたりオスマン帝国の支配下にあり、この期間に作成された膨大なオスマン語文書 史料は、ブルガリアの歴史を知るために大変有益である。しかしながら、従来のブルガリアにおけるオスマン史研 究はその領域内に関心が集中する傾向があり、同じオスマン帝国の支配下にあったアナトリアはもちろん、バルカ ンの他の地域にさえ関心が向けられることはほとんどなかった。例えば、1990年代初頭、16-17世紀のオスマン帝国 における人口圧力の有無をめぐる国際的な論争があった。オスマン帝国の国家体制と社会体制の変化に関係する重要 な論争であったにも関わらず、アナトリアが主な舞台であったためか、著名なN. Todorovを除くブルガリアの研究者 はこの論争に参加することとはなかった。

 このようにオスマン帝国支配期の研究について、もっぱら自民族と自国内の動向に関心が集中する傾向は、他のバ ルカン諸国においても同様にみられたことである。それでも、戦前のブルガリアにおける研究には、注目すべきも のがあった。例えば、N. Mihov、P. Dorev、V. Hindarov、G. D. Galabovは、一次史料に基づく先駆的な研究を海 外において発表した。また、彼らやドイツから来たB.C. Nedkoffの薫陶を受けた、N. Todorov、V. Mutafcieva、B. Cvetkovaといった戦後活躍する研究者たちも、オスマン帝国の土地制度、都市、統治機構のあり方を考察する上で 重要な研究を発表している。

 ブルガリアそしてバルカン諸国において、そのオスマン帝国期の歴史研究が自民族、自国史に限定される傾向が あったことは、民族主義と共産主義という2つの思想の大きな影響を受けていたためである。民族主義とそれに基 づく国民国家が誕生した結果、バルカンの国々の関係は良好なものとはならなかった。異なる民族が多数の居住する バルカンにおいて、民族主義を強調することで多くの悲劇が繰り返されてきた。今日でもバルカンの民族主義者たち は歴史の教訓を学習していないのである。そのことは研究者たちも例外ではない。

 それでも、戦前は比較的自由な研究を行うことができたが、戦後に共産党政権が確立するとともに、歴史研究は マルクス主義の強い影響下におかれ、オスマン帝国期は、バルカン諸国が「オスマン封建制」という遅れた発展段 階のもとでくびきのもとにおかれた時代として否定的に評価され、そのような見方から歴史を叙述することが強い られた。そして、研究者が共産党政府によって書かされた歴史観は、そのまま子供たちの使用する教科書の記述の 基礎となっていったのである。戦後の研究、特に社会経済に関係する研究は、マルクス主義の影響を直接うけたため に、最もうまくいかなかった分野となった。そのため、当時の研究を今日読み返すときには、マルクス主義的な修辞 法に注意する必要があるのである。

 しかしながら、共産主義体制の崩壊とその後の周辺諸国との関係改善によって、研究は良い方向へと向かっている といえよう。例えば、1993年にはじまったブルガリアとトルコにおける文書館の相互利用の取り決め、さらに学術交 流とそれに基づく出版が盛んに行われていることは、その証であり希望のはじまりである。ブルガリアと他のバルカ ン諸国におけるオスマン帝国期の自国史研究の歩みから、我々が学ぶべきことは、思想信条によってではなく、あく まで一次史料に基づき、そこから事実を読み解くことの重要性である。

 今回のラドゥシェフ氏の実体験を踏まえた報告によって、共産主義体制下の研究の問題点と研究者の苦労をまざまざ と知ることができた。報告は、共産主義体制下の研究にどのような問題があったか、という問題だけではなく、「学 問の自由」とは何か、ということを考えさせる機会でもあったと思う。また、思想統制下における研究者の苦労を踏 まえ、先人たちへの敬意を欠かすことのない、ラドゥシェフ氏の姿勢に、単なる学識の深さだけではなく、実際にそ の苦境を経験した人間だけが共感することができる深い思いと人間的な暖かみとをかいまみることができた。報告の 概要を述べるにあたって省略しなくてはならなかったが、ラドゥシェフ氏の報告は、ブルガリアそしてバルカンの歴史 研究の「暗黒時代」に触れる、やや深刻な題材を扱いながら、エジプトの文書館での経験、ブルガリアにおける研究書 の出版事情、研究者の人となりにも触れるなど、前回の報告同様、終始ユーモアを忘れないものであった。

 今回のセミナーでは、参加者の積極性が前回にも増して発揮されたといえる。ラドゥシェフ氏の報告を受けて、参加 者との間で活発な討議が行われたことはもちろん、報告の前後には、この貴重な機会を逃すまいとする質問者が待ち受 けており、ラドゥシェフ氏はそれに快くそして真剣に対応されていた。ラドゥシェフ氏のまたのお越しを心からお待ち するものである。

文責 今野 毅(北海学園大学・札幌学院大学非常勤講師)

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